私のスピリチュアル体験記

人生悩んだときに私がトライした占い&スピリチュアル体験のお話し

心身という幻想

阿部敏郎さんのブログ記事『かんながら』に

真実はそうなんだろうな…。

でも、まだこの感覚は私は分からないや💦

というのを、ご紹介しますね(;^_^A

 

般若心経では
無・・・眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
と断言しています。

(ここで言う意識とは、最奥の純粋意識ではなく、心のことだと思えばいいでしょう)

 

でもそんなことを言われても、自分の存在を身体と同一視している状態では、分かりようがありません。
自分が身体でも心(思考作用)でもないことが明らかになったとき初めて、この言葉を当たり前のこととして理解できます。

 

身体の最も内側にある柔らかい部分が心。
心の一番外側にある硬い部分が身体。
そのどちらも本当のあなたではありません。
どちらもこの物質次元を生きるための乗り物であり、したがって死と共に両方とも消滅します。

この二つに自己同化していると、死はすべての終了のような気がするので、底知れぬ恐ろしさを持つことになります。

 

でもこの事をいったん見抜くと、確かに怖さはあるのですが、その恐さは新しい冒険の前の恐さに似ていて、いわゆる死に物狂いで抵抗することは無くなります。

 

心身という幻想

自己の不在を説くノンデュアリティ(非二元論)や、
自動運転に対する信頼である絶対他力の真実も、心身としての自己がいくら考えても表面的な矛盾を見つけるだけで意味はありません。

そして社会や自分の周囲で起きていることに対して、不安や危うさばかり見てしまうのも、身体の目から見ているからです。
時間と共に朽ちていく身体から見るのだから、すべてが危うく見えるのも当然と言えば当然です。

 

真理は「大丈夫」
「何も起きていない」
「すべては愛だ」と言いますが
身体と同化した者から見れば、このような話はお花畑の空論で人を惑わしているとなり、中には攻撃してくる者もいます。

真理を説く者は、相手の気持ちが分かるので反論はしません。
しかし相手は、伝える側の気持ちが分からないので攻撃するのです。
これは有史以来、ずっと繰り返されていることです。

あなたは心身ではありません。
したがってこの二つが終了しても、あなたは残ります。
むしろ心身という幻想が消えた分だけ、もっと強烈に存在を感じることになります。
そしてその強烈さは、喜びであり至福です。

 

どうですか?

これが真実みたいだと思いはするのですが、なんせ実際に覚醒体験してない私💦

体験したら『そうだったのか‼️』って

思えるのでしょうね(*´∀`)